学生7年間で疲労骨折5回、ジャンパー膝、動注 / TENEX 治療の記録
学生7年間の故障歴を全部書く
学生時代、高校では怪我のサイクルから抜け出せなかった。疲労骨折を繰り返し、3ヶ月に1回壊れていた時期もある。大学に入ってからは疲労骨折は1回で止まったが、今度は膝蓋靭帯炎(ジャンパー膝)に取り憑かれ、動注治療と TENEX 治療を経て、4年次の箱根駅伝にようやくフルコンディションで出場した。
| # | 時期 | 故障 | 部位 |
|---|---|---|---|
| 1 | 高1 4月末 | 疲労骨折 | 左 脛骨 |
| 2 | 高1 秋 | 疲労骨折 | 左 脛骨(ちょっと下) |
| 3 | 高2 夏前 | 疲労骨折 | 右 大腿骨頸部 |
| 4 | 高2 秋 | 疲労骨折 | 左 脛骨(上部) |
| 5 | 高3 通年 | 足底筋膜炎・ランナー膝(腸脛靭帯炎) | 両足 |
| 6 | 大1 春 | 疲労骨折 | 左 仙骨 |
| 7 | 大1 冬 | ランナー膝(腸脛靭帯炎) | 左膝 |
| 8 | 大2〜大4 | 膝蓋靭帯炎(ジャンパー膝) | 右膝 |
| 9 | 大3 夏 | ふくらはぎ・アキレス腱付近 | 左 |
怪我のたびに練習が止まる。復帰して、また壊れる。その繰り返しが、自分の学生時代の中身だった。引退から4ヶ月経った今、学生時代の故障を全部記録として残しておく。
高校1年、4月末:1500m 記録会の代償
中学3年の3月に早めに入寮した。高校に慣れるため、合宿に参加しながら練習を進めた。
最初は調子が良かった。中学時代より練習の強度が一段上がっていて、それが効いていたと思う。ただ、足はもともとシンスプリントで気になっていた。左の脛骨付近がパンパンに腫れていて、走るたびに痛んでいた。
それでも、4月末の 1500m 記録会には痛みを我慢して出場した。自己ベストは出せた。レース後、左脛骨の痛みが一気に増した。MRI を撮ると、診断は左脛骨の疲労骨折だった。
離脱は2ヶ月。ただ、レントゲンで「治った」と言われても、痛みが残ったまま復帰すると再発する。ポイント練習に戻れたのは3ヶ月後だった。これが疲労骨折と付き合う最初の経験だった。
高校1年秋、夏合宿後の再発
1回目から夏合宿を経て、トラックシーズンに入った頃、また左脛骨を疲労骨折した。位置は1回目と全く同じではなく、ちょっと下のあたりだった。
このとき、1回目の経験を活かしてフォームを分析したり、メニュー量を見直したりはできなかった。当時の自分にはそこまでの知識も冷静さもなかった。「治ったから走る」を繰り返していた。1年の秋から冬にかけては故障期間として過ごした。
高校2年、夏前:大腿骨頸部の異例
高校2年の夏前、5000m の記録会で調子が上がってきた直後、右の大腿骨頸部に疲労骨折が出た。
脛骨も普通に日常生活で痛む。ただ、大腿骨頸部はそれ以上に支障が出た。パンツを履くとき、歩くとき、毎回痛む。これは疲労骨折あるあるだと思うが、朝起きた瞬間「うわ、まだ治ってない」と痛みが走る。熟睡もできない。
医者には**「お年寄りが起こすような疲労骨折」**と言われた。高校生で大腿骨頸部の疲労骨折は珍しいらしい。ただ、長距離選手の中では大腿骨を疲労骨折する人は周りにも何人かいた。陸上競技は怪我と隣り合わせのスポーツだ、と当時から思っていた。
高校2年秋、駅伝後の脛骨
大腿骨頸部から夏合宿後に復帰し、ポイント練習を少しずつ再開して秋のトラックシーズンに入った。5000m のレースに出たときは全く痛みがなく、駅伝にも出場できた。
問題はその後だった。駅伝が終わって、これから本格的に練習を積んでいくぞというタイミングで、また左脛骨を疲労骨折した。位置は今までより上の方。これは今までの脛骨疲労骨折のなかで一番痛かった記憶がある。レース直後ではなく、調子に乗ってきた瞬間に壊れたのが、当時は何より悔しかった。
高校3年:疲労骨折はなかったが
高3 は疲労骨折こそ起こさなかった。代わりに、足底筋膜炎、ランナー膝(別名:腸脛靭帯炎)で長期離脱を繰り返した。腸脛靭帯炎は特に苦しんだ。
3ヶ月に1回のサイクルで継続した練習ができなくなる状態は、骨折ではなくなっただけで本質的には変わっていなかった。自己ベストも更新できなかった。
このころ、どこか痛めるたびに「すぐ MRI を撮りたい」気持ちになっていた。これも疲労骨折経験者あるあるだと思う。診察室で結果を待っている数分は、毎回ドキドキしながら最悪を想像していた。あの待ち時間は今も嫌な記憶として残っている。
それでも、箱根を走りたいという気持ちだけは消えなかった。関東の私立大学に推薦で進学することを決めた。
高校時代の自分に、今の自分が伝えるなら
教えない、見せるをこのブログのスタンスにしているが、ここだけはアドバイスとして書きたい。
高校時代の自分は、レースに出たい、練習したい、周りが走っているから自分も走らないといけない、という不安と焦りに駆られていた。痛みが出ても我慢して練習を続けていた。それが大した記録を残せなかった理由だと、今振り返って思う。
一度怪我をしたら、その怪我について調べる。生活スタイルを見直す。フォームを分析する。治療院でトレーナーに相談する。起こした怪我を再発させないことが、陸上競技で強くなるための一番の要因だ。それを当時の自分はわかっていなかった。
大学1年、春:1日で破壊された仙骨
心機一転、今度こそ怪我のサイクルから抜け出すと決めていた。痛みが出たら、すぐコーチや監督に相談して練習を一旦止める。早く治すことを優先する。それを自分との約束にしていた。
春先は調子が良かった。ジョグのペースも上がっていた。トラックシーズンに入って、スピード練習も強度の高いメニューに切り替わっていた。
ある日の朝練、腰に少しだけ違和感が出た。違和感程度だったので、その日のスピード練習はやって様子を見ようと思った。前日まで何の違和感もなく、朝練で初めて出た程度だ。
スピード練習はスパイクで行った。アドレナリンも出ていて調子よく走れた。ただ、終わった後に腰に力が入らない感覚が残り、ダウンもままならなかった。
翌朝、激痛で目が覚めた。パンツを履くのも痛い。これはやばいとすぐにMRI を撮りに行った。結果、左仙骨の疲労骨折。1日で違和感から激痛まで進んだ自分でもびっくりした。
「すぐ言う」と決めていたのに、同じ過ちを繰り返した。本当に悔しかった。
仙骨は春先発症で、夏前にようやく走り始められた。
大学1年秋以降、徐々に怪我を減らしていく
大学1年の秋以降、高校の頃のような3ヶ月サイクルからは外れていった。完全に怪我が消えたわけではないが、頻度はだいぶ下がった。
何が変わったか1つに絞れない。先輩や同期が勧めてくれた鍼治療院に通い始めた。マッサージも受けた。自分でセルフケアもするようになった。違和感が出たら2、3日休む判断もできるようになった。それぞれが少しずつ効いて、徐々に怪我の頻度が下がっていった。
骨折を起こす前に身体のシグナルを拾える感覚が、少しだけ育ってきた時期だ。
大学1年冬、ランナー膝と関東の極寒
大学1年の冬、左膝にランナー膝(腸脛靭帯炎、外側に出るタイプ)が出た。冬の間は走れない期間が続いた。
走れない期間は、体幹トレーニングや補強で時間を埋めていた。寒さの記憶はそこに詰まっている。関東の真冬は本当に寒くて、走らずに体が温まらないまま補強だけしている時間が、ただただ寒かった。
大学2年、春〜:ジャンパー膝が始まる
大学2年の春先は調子が良かった。主要な大会が終わった後、右膝の膝蓋靭帯炎、いわゆるジャンパー膝を発症した。
膝蓋靭帯炎は、太ももの前の大腿四頭筋と脛をつなぐ膝蓋靭帯に微小な断裂や炎症が起きる症状だ。バレーやバスケの飛び跳ねる競技で多いが、長距離の積み重ねでも発症する。
そして、これが厄介な怪我だった。一度なるとなかなか治らない。鍼治療やマッサージを続けても、回復が遅かった。
夏合宿は全く走れなかった。秋に痛みを抱えながら 10000m のレースに1本だけ出た。その後また悪化して、冬は完全に走れなかった。
この長期間走れない期間に、自分は資格の勉強を始めた。情報系の資格を取っていく過程で、エンジニアという職種に興味を持ち始めたのもこの頃だった。
大学3年、春:動注治療と初めての箱根
大学3年の春、お世話になっていた整形外科で動注治療(モヤモヤ血管治療)を受けた。
慢性的な痛みが続く部位には、本来はないはずの異常な細い血管が増殖していることがある。これが「モヤモヤ血管」と呼ばれるもので、この血管に沿って痛みを伝える神経も一緒に増えてしまう。動注治療は、細い針またはカテーテルを使って、抗生物質を含んだ薬剤をモヤモヤ血管に注入し、その血管を減少させる治療だ。血管が減ると、それに沿って増えた神経も減り、痛みが軽減する。
これが効いた。完全には消えなかったが、痛みをごまかしながら春先から練習を継続できた。
大学3年、夏:ふくらはぎを早期離脱で対処
夏合宿の途中でふくらはぎを痛めた。これは過去の経験を活かして、痛くなった瞬間に離脱した。田舎の合宿地から関東に戻って治療し、合宿に再合流した。
そういった試行錯誤の積み重ねの末、大学3年で箱根駅伝に初出場した。レース本番中は膝の痛みは出ずに走り切れた。痛みが戻ってきたのは、終わった後だった。
大学3年、冬:ジャンパー膝の再発
箱根直後の1月以降、膝蓋靭帯炎が再び悪化した。1月、2月、3月は走れない期間が続いた。リハビリを続けても、なかなか良くならなかった。
大学4年:TENEX 治療と体外衝撃波で復活
大学4年、同じスポーツ整形外科で TENEX 治療を受けた。
TENEX 治療は、超音波ガイド下で 3mm ほどの小切開から器具を入れ、超音波振動で傷んだ腱組織だけをドロドロ状に分解して吸引する治療だ。正常な腱を傷つけずに、変性した部分だけを選択的に除去できる。日帰りで完結する。動注治療や一般的なリハビリでも治らない人が選ぶ治療法だ。
TENEX に加えて体外衝撃波も並行で受けた。これらの治療のおかげで、痛みとうまく付き合いながら春先のトラックシーズンに入ることができた。
5000m と 10000m で自己ベストを更新した。夏合宿は怪我なくスケジュール通りに練習を組めた。秋以降のトラックシーズンと駅伝シーズンにつながる走りができた。
そして、4年次の箱根駅伝にも出場した。3年次のときと違って、膝の痛みもほぼなく、走っていて気持ちいいと思える状態で走れた。膝はまだたまに痛むことはあるが、整形外科のリハビリ、トレーナー、学生トレーナーの力を借りながら、怪我と付き合って大会に出た、というのが学生競技生活の最後だった。
振り返って:なぜ繰り返したのか
引退してから4ヶ月、当時の自分を振り返って思うことがある。
高校時代の繰り返しの原因は、レースへの欲求が痛みのシグナルに勝っていたことだ。1回目(1500m 記録会)と4回目(駅伝後の練習再開)で、同じ判断ミスをしている。当時はフォーム分析や練習量の見直しをする余裕も知識もなかった。
大学1年春の仙骨も、本質は同じだった。「すぐ相談する」と決めていたのに、違和感を「違和感程度」と過小評価して、強度の高い練習に踏み込んだ。1日で破壊された。
大学2年から始まったジャンパー膝は、急性の判断ミスというより累積疲労が引き起こした慢性化だった。疲労骨折と違って、走れないほどの痛みではない。「痛いけど走れるから行くか」で練習を継続してしまうのが、この怪我の厄介さだった。
そして自分は、その怪我を調べなかった。なぜなったのかを分析しなかった。これが振り返って一番のマイナスだった点だと思う。フォームを見直していれば、「お尻が使えていない」「ふくらはぎだけで走っている」「膝がねじれている」といった原因に手が届いたかもしれない。当時はそういう自己分析をしていなかった。
動注治療と TENEX 治療と体外衝撃波を経て、ようやく走れる脚になった。
引退後の今、生活スタイルが変わった
学生生活全体を振り返って、自分が変えたなと思うのは、当たり前かもしれないが生活スタイルだ。怪我が多い選手だった自分でも、最後の方は怪我に悩まずに走れるようになった。
健康第一、体が資本。陸上は怪我をしたら大会にも出れないし、強くもなれない競技だ。怪我をしない体作りこそ全ての土台になる、と気づくのに時間がかかった。
大学3年以降、生活の中身を変えた。
- 22 時には必ず寝る(睡眠時間の確保を最優先)
- 3大栄養素を意識する(タンパク質・脂質・炭水化物。「今日は脂質多めだから抑える」「タンパク質少なめだから夜に追加する」を頭で計算しながら食事を組む)
- 娯楽の時間を減らしてセルフケアに回す(ゲームは大学2年までは結構やっていた。3年以降は時間をストレッチやマッサージ、自分の身体を整えることに使うようにした)
- セルフケア(自由時間でストレッチとマッサージ。自分の足を毎日触って、疲労が溜まっている部位を把握する。自分の身体は自分が一番知っている)
これらは当たり前のことかもしれない。それでも、これを大切にしたら怪我をしない体作りに繋がった。学生時代の疲労骨折は5回で止まった。6回目は起こさなかった。
高校では身体ができていなかった、というのもある。大学で身体ができてきたあとに、生活スタイルを整えたことで、怪我のサイクルから抜け出せた。
今やっている当たり前の対策
社会人 1 年目になった今も、基本的には学生時代の延長線上で、当たり前の対策を積み重ねているだけだ。
- シューズを使い分ける(ジョグ用、ポイント用などで使い分ける。詳しくは大学2年間の adidas シューズ記事に書いた)
- セルフケアを行う(マッサージガンを使ったり、Trigger Point のフォームローラーで気になる部位をほぐしたり、ストレッチをしたり、体幹トレーニングを取り入れたり。学生時代は鍼治療に通っていたが、社会人になってから時間が取れず、家でできるセルフケアに移行した)
- 食事に気を遣う(3 大栄養素を意識する習慣は学生時代から続いている)
- 睡眠時間を確保する(3:45 に起きて 12km を走るために、21 時前後には布団に入る)
- 時間があるときに浴槽に入る(シャワーで済ませず、湯船で身体を温める)
特別なことは何もしていない。当たり前のことを当たり前にやっているだけだ。5 回壊れた末に、ようやくここに辿り着いた。
3:45 起きで12kmを走る今の生活も、その延長線上にある。社会人になっても、学生時代に固めた早寝の習慣を続けているだけだ。